信州・戸隠山 極意の伝統・文化

「戸隠の歴史」

戸隠イメージ

信州戸隠山(とがくしさん)の開山は、天岩戸神話に由来し、天手力男命(あめのたちからおのみこと)が天岩戸を投げ隠した地であり、その後、考元天皇5年(前207年)命(みこと)の子孫、阿智族に依り先住の九頭龍神と共に祀られたと伝えています。 また、役行者(えんのぎょうじゃ)が開祖で、 嘉祥2年(849年)学問行者(がくもんぎょうじゃ)が入山し、先住の九頭龍神を山の守護神として岩戸で封じ、戸隠寺を建て自ら別当となったものと伝えられています。 時代は下って平安時代末。戸隠は修験道の名道場として、都にまでその名が知られました。神仏が習合されたこの頃。戸隠は戸隠山顕光寺(とがくしさんけんこうじ)といい比叡山延暦寺末寺で「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」といわれる程に栄えました。 やがて、修道院は全国的に衰え、戸隠では天合派、真言派の争いや戦国期の上杉、武田の争いにも巻きこまれ壊滅的な打撃を受け、すっかり衰退してしまいました。 江戸時代に入り、戸隠は徳川家康公に手厚く保護され、守護不入、一千石の朱印状を賜わり東叡山(とうえいざん)寛永寺の末寺となりました。 今までの修験道とは切り離され、農業、水の神としての性格が一層強まり、山中は門前町に整備されて奥社の杉並木も植えられました。 その後関東、中部、北陸を中心に戸隠講も生まれ、広くその信仰をあつめました。 明治は、奈良時代以後一千年に及んだ我が国の神仏を分離し、戸隠では他に類をみない程の徹底的な拝仏毀釈が行われ衆僧は還俗して神官となり、戸隠神社となりました。 戸隠神社の御祭神は、天手力男命、九頭龍大神(奥社)天八意思兼命(中社)天表春命(宝光社)天鈿女命(日之御子社)です。
戸隠山(戸隠神社)の神官のことを特に聚長(しゅうちょう)と呼びます。

「宿坊極意の歴史」国の登録有形文化財

国の登録有形文化財「宿坊極意」の外観
国の登録有形文化財「宿坊極意」の外観

当家は戸隠神社の聚長家(宿坊のこと)で、代々神明奉仕をその職としております。聚長家(宿坊のこと)というのは、戸隠山(戸隠神社全体をいいます)への神明奉仕の傍ら全国から集まる信者に祈祷の取次ぎや、宿泊等の便宜をお計りするもので、当家の創始は中世、この地が山岳信仰のメッカだった頃といわれ、能海防(のうかいぼう)といいました。
江戸時代初期に寺格昇進に伴い徳善院と改めました。この時代中頃より、集団での寺社参拝が許され世話人(先達)と呼ばれる人達により戸隠講がたくさんつくられました。宿坊は各講の指定宿舎となりおおいに賑わいました。明治の廃仏毀釈以降は極意と名乗り現在に到っております。
建物は文化12年(1815年)に再建されたもの(平成17年2月「国の登録有形文化財」に指定)で、積雪に強い「セガイ造り」と呼ばれる神殿、庫裏、庭園からなり神殿は東西六間半、南北五間。庫裏は七間と十一間です。厚さが一米半に及ぶ萱葺き屋根は雪の多い戸隠にふさわしい、力強さを見せています。
神殿には「天手力雄命」(たじからおのみこと)、「天思兼命」(おもいかねのみこと)、「天表晴命」(うわはるのみこと)、「九頭龍大神」(くずりゅうおおかみ)、「天市杵嶋姫命」(いちきしまひめ)、釈迦如来(しゃかにょらい)が祭られています。

このページのトップへ